補足説明

研究の背景
 言語は、人間に固有の高次脳機能である。言語学的には、聞く・話すという言語機能は生得的かつ1次的な機能であり、読む・書くという言語機能は2次的であると考えられている。それには、主に2つの理由がある。第1に、言葉を使っていたと考えられる人類の数万年の歴史の中で、文字の使用は五千年ほど前に始まったばかりである。第2に、乳幼児は親が意識して教えなくとも音声言語や手話およびその文法規則を獲得できるのに対し、文字の読み書きは教育によって後天的に身に付く能力である。文字が2次的なものであっても、脳科学にとって重要な問題であることに変わりはない。言葉は話せるのに、文字を読めなくなる脳の病気(読字障害や難読症と呼ばれる)が知られているが、読字のプロセスは複雑で、未だ解明されていない。実際、文字を正しく読むためには、正字法(orthography)・音韻(phonology)・語彙的意味(lexico-semantics)などの言語知識が必要である。

 読字障害(dyslexia)とは、正常な視力を持ち、1つ1つの文字は正しく知覚できるのに、文字で書かれた文章を正確に読めないという障害である。遺伝性の原因が考えられる場合は、「先天性読字障害」と呼ばれており、大人になってもなかなか回復しない。欧米では、読字障害の患者が全人口の5%から10%に及んでおり(有名人の中ではトム・クルーズがその一人)、その対策は学校教育を含めて大きな社会問題となっている。読字障害のメカニズムについては、音韻処理が問題であるとする説と、視覚系の異常であるとする説があって、言語の脳科学で最も盛んな議論が行われている分野の1つとなっている(酒井邦嘉著『言語の脳科学』中公新書、p. 188)。

 人間を対象とした脳機能イメージングの手法によって、図形や顔にではなく、文字に選択的に活動する領域が、左脳の側頭葉に見つかっている(Price et al., 1996; Puce et al., 1996)。この領域は、隣接する下側頭回後部と紡錘状回(ブロードマンの21野と37野)の一部であり、「文字中枢(letter center)」の候補と考えられてきた。さらに、発音できる文字列に対してこの領域の活動が上昇することから、正字法に従った機能を担う領域として、「視覚性単語形状領野(visual word form area)」と呼ばれている(McCandliss et al., 2003)。その一方で、この領域の活動には必ずしも視覚的な単語形状が必要ないという主張(Price and Devlin, 2003)が現れて、最近の論争となっている。しかし、正字法・音韻・語彙的意味などの要因の中で、どれが本質的に「文字中枢」の機能と関係しているかは明らかになっていなかった。

 こうした言語の問題は、脳科学における究極の挑戦である。言語学のパラダイムに基づく脳機能イメージングの研究により、「言語の脳科学」が科学技術の新しい分野として確立・発展すると期待されている。本研究プロジェクトでは、「教育の脳科学の一つの突破口は言語にある」というコンセプトに基づいて、教育に厳密な科学を持ち込むことを追究している。研究のねらいは、言語の脳機能に焦点を当てて、言語習得のメカニズムを解明することにあり、教育の効果を脳機能の変化として直接的に捉えることを目指してきた。

 平成16年1月26日にプレス発表したように、我々のチームは、英語の授業で脳の「文法中枢」の機能が変化することを初めて直接的に証明した。次のステップとして、1次的に獲得される文法知識と対比して、2次的に学習される読字の能力がどのように違うのかを明らかにすることが重要である。実際、文字の学習では、前頭葉のブローカ野にある「文法中枢」とは全く異なる領域が関与すると考えられる。そのためには、脳科学の観点から文字の学習過程をさらに研究していく必要があった。
 
具体的な実験結果・考察
 本研究では、言語課題として、新しく習得中の文字と音声を組み合わせる課題と、既習の文字と音声のマッチング課題を直接対比した。さらに、対照条件として、新しく習得中の文字と非音声を組み合わせる課題と、非文字図形と非音声のマッチング課題を用いた。このパラダイムにおいては、すべて意味のない単語を用いることで、正字法と音韻の2つの要因に絞り込み、どちらか一方のみで十分であるか、それとも両方の要因が必要であるかを明らかにすることを目標とした。被験者は、日本語を母語とする右利きの大学生および大学院生12名(18−27歳)であり、すべての被験者からインフォームド・コンセントを得た。すべての被験者で、実験前にはハングル文字の学習経験はない。fMRIによる実際の実験は、次の4条件で構成されている(図1)
1) KS課題:仮名文字(kana, K)と音声(speech, S)のマッチング課題。「あ、い、お、か、き、こ、ま、み、も」の音声と仮名文字を使用した。
2) HS課題:ハングル文字(Hangul, H)と音声(speech, S)のマッチング課題。「あ、い、お、か、き、こ、ま、み、も」の音声と、それぞれに対応するハングル文字を使用した。
3) HN課題:ハングル文字(Hangul, H)と非音声(non-speech, N)のマッチング課題。8つのハングル文字に対して、低いトーン音(T-L)・高いトーン音(T-H)・低いノイズ音(N-L)・高いノイズ音(N-H)のいずれかをマッチさせる。
4) NN課題:非文字図形(non-letter, N)と非音声(non-speech, N)のマッチング課題。4つの非文字図形に対して、低いノイズ音(N-L)・高いノイズ音(N-H)のいずれかをマッチさせる。
 HSとHN課題では、はじめにハングル文字と音の組み合わせを数十回(数分間)の練習で覚えてから、1日目(Day 1)のfMRI実験中にそれぞれ180試行を行い、一晩睡眠をとった翌日(Day 2)にさらに180試行を繰り返した。なお、1試行に要する時間は4秒であり、トレーニングはこの実験中(全体で実質24分)のみに限られている。

 もしも正字法のみが重要であって音韻の要因が文字学習に無関係ならば、同様のハングル文字を用いたHS課題とHN課題では、類似した脳の活動が観察されるはずである。また、「文字中枢」の活動が音韻処理のみに基づくならば、全く同じ音声を用いたKS課題とHS課題では、同様の活動が観察されると予想される。しかし、HS課題のみに選択的な脳活動が検出されるならば、正字法と音韻の両方の組み合わせが必要であることが結論できる。

 被験者すべてのデータを平均加算したうえで、KS課題とNN課題を比較したところ、両側の側頭葉上部、下側頭回後部と紡錘状回、そして頭頂−後頭皮質に強い活動が見られた(図2A)。また、HS課題とKS課題を直接比較したところ(図2B)、左脳のこれらの領域において、新しく習得したハングル文字と音声の組み合わせに選択的な領域(赤色の部分)と、既習の仮名文字に選択的な領域(青色の部分)が分離した。さらに、ハングル文字の習得過程で変化した脳活動を調べたところ(図3A)、左脳の下側頭回後部の一部(緑色の部分)に局在することが明らかになった。同じ標準脳において、図2Bの結果を重ね合わせた結果によると、左脳の側頭葉においてHS課題に選択的な活動を示す領域(赤色の部分、左脳の下側頭回後部)は、KS課題に選択的な活動を示す領域(青色の部分、左脳の紡錘状回)と隣接しており、解剖学的に分離していた(図3B)

 左脳の下側頭回後部における各課題別の活動変化をさらに解析したところ、HS課題に選択的に、1日目(Day 1)よりも2日目(Day 2)に活動が上昇することが観察された(図3C)。これに対し、同じ音声を用いたKS課題や、HS課題と同様のハングル文字を用いたHN課題では、このような活動の上昇は全く見られなかった。一方、紡錘状回では、KS課題に選択的に、2日間で共通した活動が見られた(図3D)。以上の結果より、「文字中枢」と考えられてきた左脳の下側頭回後部と紡錘状回が、別の機能を担っていることが明らかになり、左脳の下側頭回後部の活動には、正字法と音韻の両方の組み合わせが必要であることが結論された。

 また、HS課題において、成績には個人差が見られるが、ほとんどの人で2日目に成績が向上した(図4A)。さらに、左脳の下側頭回後部の活動変化は、HS課題における成績変化と高い相関を示している(図4B)。従って、トレーニングの到達度が、脳の働きとして客観的に測定できることが明らかである。また、左脳の下側頭回後部と頭頂−後頭皮質の機能的結合を解析したところ、HS課題においてのみ、2日目に機能的結合が増強されることが明らかになった。
 
今回の成果のポイント
 本研究において、身近な読字のトレーニング効果を個人の脳の学習による変化として、科学的にそして視覚的に捉えることに初めて成功した。また、特殊な強化トレーニングを長期間実施することなく、実質わずか30分程度のトレーニングをした際に、学習途上で脳機能がダイナミックに変化することを明らかにした本成果には、ユニークな意義がある。さらに、言語の感受性期をすでに過ぎたとされている大人において、脳機能の可塑的変化が示されたことは、大脳皮質が成人で完成するのではなく、大人になった後も脳が機能的に変化し続けることを示唆する。このメカニズムは、「文字中枢」である左脳の下側頭回後部と紡錘状回を中心として、頭頂−後頭皮質を含むネットワークが担っていると考えられる。さらに、文字と音声の新たな組み合わせには左脳の下側頭回後部が特化しており、左脳の紡錘状回が既習の文字に選択的な反応を示す、という新しい知見は、人間の高次視覚皮質の機能分化を直接的に示す画期的な発見である。
 
研究成果の社会的意義
 この研究は戦略的創造研究推進事業の「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」という研究領域の一環として行われたものであり、脳の機能発達の基本的な枠組みを提案する。本成果の社会的意義を次に要約する。

1)読み書きの習得機構の解明。読字の能力が習得される過程を、脳科学の立場から初めてはっきりさせたことにより、読み書きの習得メカニズムの解明が進むことが期待される。具体的には、外国語の文字の読み方をマスターするためのメカニズムがわかり、単なる文字の書き方ではなく、文字と音声を組み合わせることの重要性が指摘できる。この知見は、語学習得に直接役立ち、効率の良い学習法に役立てることができる。

2)読字障害のリハビリへの応用。読字障害の機能が回復する際に、下側頭回後部と頭頂−後頭皮質の活動や機能的結合がどのように変化していくかをモニターすることにより、リハビリテーションに役立つ新しい知見をもたらす可能性がある。

3)生涯学習の促進。言語の感受性期は学齢期頃までと考えられているが、この時期を過ぎた成人において脳の機能的な可塑性が具体的に示されたことにより、大人が主体的に学習することに対して、初めて学問的な裏付けがなされた。1990年に生涯学習振興法が制定されたことに鑑みて、生涯学習をさらに促進することは意義深いことである。

 以上のように、特定の学習法やリハビリの有効性、およびトレーニングの到達度が、脳の働きとして客観的に測定できるという事実は重要である。このような新しいコンセプトの教育方法を提案することで、本成果は、医学・教育学などの学問分野だけでなく、広く一般社会の発展に寄与する。
 

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This page updated on April 22, 2004

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