【補足説明】

研究の背景
 チョムスキーが提唱する言語学の理論では、人間の言語能力を、文法や意味といった言語知識の異なる要素に対応した「モジュール」に分けている。脳における言語のメカニズムを理解するためには、これらの言語モジュールがその他の認知機能からどのように分けられるのかを明らかにする必要がある。本研究の目的は、意味理解などの認知機能と独立して働く文法処理モジュールの存在を、脳の活動との因果関係として証明することである。
 1861年にブローカが発話の障害を報告して以来、言語障害の症例がこれまで数多く蓄積されてきた。大脳皮質の言語野であるブローカ野とその周辺が損傷を受けると、話をすることが思うようにできなくなる。また、発話される文から文法的な要素が抜けてしまう現象が知られており、「失文法」と呼ばれている。1960年代に、アメリカのゲシュビントらは、失文法の原因がブローカ野を含む前頭葉の損傷であることを主張したが、この考えに異論を唱える研究者が多数現れて、論争が続けられてきた。
 1980年代になって、文中に文法的な間違いがあるときに、脳波に一定の乱れが生ずることが報告された。しかし、脳波の技術では、脳のどこから信号が出ているのかを決めることができない。PET(ポジトロン断層撮影法)や機能的MRI(磁気共鳴映像法)といった脳機能イメージングの技術によって、さまざまな言語課題でブローカ野の活動が観察されるようになったが、その大半は単語の音韻や意味に関する課題だったために、ブローカ野の機能は依然としてよくわからなかった。文を使った研究でも、複雑な文にすればするほど言語野の活動が強くなることを示したのにとどまっていたので、言語ではなく、記憶などの認知機能の負荷が言語野の活動を高めるという可能性が残ったままであった。実際、単語を用いたさまざまな記憶課題で、左脳の前頭葉が活動することが報告されている。近年、人間で見られる記憶や数に関する認知能力がサルやチンパンジーでも観察され、言語能力を一般的な認知能力の延長としてとらえられる見方が支配的であった。
 今年の8月1日にプレス発表したように、我々のグループは、言語課題と一般的な認知能力の課題を直接対比することで、文法判断に選択的な活動をブローカ野に見出した。この結果から、文法判断がブローカ野の活動を引き起こすことがわかったが、ブローカ野の活動によって文法判断が変わるという因果関係の証明が課題であった。

 経頭蓋的磁気刺激法(TMS)は、1985年から主として大脳の運動野の刺激法として用いられるようになった。磁気刺激では、磁場の変化が誘導電流を引き起こし、主に大脳皮質で電流の流れが変わるので、頭の筋肉の収縮を抑えながら脳を刺激できる。本研究で用いた二連発刺激は、数秒間に一回の頻度で加える低頻度刺激であり、健常者に対しても安全であることが確かめられており、数ミリメートルの位置情報と数十ミリ秒の時間情報が得られる【『言語の脳科学』(中公新書)p.139を参照】。

具体的な実験結果・考察
 本研究では、言語課題として、文法判断と意味判断を直接対比することを試みた。被験者は、日本語を母語とする右利き成人男性6名(22歳〜49歳、東大の院生4名を含む)であり、すべての被験者からインフォームド・コンセントを得た。実験に用いた課題は、次の2つである(図2参照)。

1)文法判断課題(Syn)
 「ゆきを さわる」、「みちを ゆずる」、「ぬのを そめる」といった文(使用した60文の例)を、3文字ずつ順に0.2秒ごとに提示する。例文のように、すべての文は名詞句と1つの動詞からなる。文を提示後に、この文が文法的に正しければ(N, normal)被験者は緑のボタンを押し、正しくなければ(A, anomalous)赤のボタンを押す。文法的に間違った文(Syn A)の例は、「ゆきを つもる」、「みちを こおる」、「ぬのを かわく」である。これらはすべて、「ゆきが つもる」、「みちが こおる」、「ぬのが かわく」とすれば正しい文になるので、意味のつながりは正しい文である。この課題は、自動詞・他動詞の区別を知らない小学生でもできるので、日本語の獲得過程で自然と身に付くような文法知識(生成文法)が必要であることがわかる。
2)意味判断課題(Sem)
 課題1と同様に文を提示して、この文が意味的に正しければ被験者は緑のボタンを押し、正しくなければ赤のボタンを押す。意味的に間違った文(Sem A)の例は、「ゆきを しかる」、「みちを ひろう」、「ぬのを みのる」である。これらはすべて、文法的には正しい文である。

 この実験の新しい点は、同じ単語のリストを使いながら、文法知識を使って文の正誤を判断する課題と、意味のつながりを判断する課題を対比させるパラダイムにある。磁気刺激は、動詞の提示開始(T = 0)、それより0.15秒後(T = 150 ms)か0.35秒後(T = 350 ms)のいずれかのタイミングを選んで行った(図2)。実験では、被験者の反応時間(動詞の提示開始からボタン押しまでの時間)を測定した。磁気刺激を加えた条件と、磁気刺激を加えずに刺激に伴うクリック音のみを提示した条件とで、反応時間の差(ΔRT)を求めて、磁気刺激の効果の指標とした。
 まず、ブローカ野(図1のI、こめかみの少し上に位置する左前頭葉下部の一部、ブロードマンの44野と45野で人間のみにある)に磁気刺激を与えた結果を示す。T = 0では動詞が提示された直後なので、まだ言語判断が起こらない段階であり、図3Aのように、どちらの課題とも、ΔRTはゼロと変わらなかった。次にT = 150 msでは、文法判断課題(Syn)において、文法的に正しい文(N)と間違った文(A)の両方で反応時間の減少が見られた(図3B)。反応時間が減少したということは、文法判断が促進されたことを示す。一方、意味判断課題での反応時間には全く変化が見られなかった。また、T = 350 msでは、どちらの課題とも、ΔRTはゼロと変わらなかった(図3C)。
 これに対し、中前頭回(図1のII、ブロードマンの8野と9野でサルにもある)に磁気刺激を与えた結果では、T = 150 msにおいてどちらの課題とも、ΔRTはゼロと変わらなかった(図4)。従って、本研究で明らかになった文法判断の促進は、特定の課題(Syn)、特定のタイミング(T = 150 ms)、特定の場所(ブローカ野)という3つの選択性を示している。以上の知見より、左脳のブローカ野の活動と文法判断の因果関係が証明された。

今回の成果のポイント
 本研究では、言語機能の代表として文法判断と意味判断を位置づけて、両者を対比させた。言語機能の核心が文法にあることは、 『言語の脳科学−脳はどのようにことばを生みだすか』(中公新書、2002年7月刊)で詳しく解説した。本研究の成果は、「文法」という抽象的な概念が脳の中でどのように使われているかという疑問に対し、特定の大脳皮質の働きとして客観的に答えたもので、文法処理の座を磁気刺激で特定したこの知見は、世界で初めてである。また、文法判断が促進されるという結果は、予め磁気刺激によってブローカ野の活動が誘起されることで、その後の文法判断に伴う活動が起こりやすくなることを示唆する。この新しいメカニズムは、脳の特定の部分が文法判断を司っていることを直接的に示す画期的な発見である。

研究成果の社会的意義
 この研究は「脳を創る」という目標を掲げた戦略的基礎研究推進事業の1つとして行われたものであり、脳のモデルを創るための基本的な枠組みを提案する。本成果の社会的意義を次に要約する。

1)人間だけに備わる心の働きの解明。言語は、人間のみに存在する最高次の機能である。思考などのあらゆる知的機能が言語を介して行われていることを考えれば、言語機能の解明なくして心の働きはわからない。文法が人間の脳で処理されるという因果関係を初めてはっきりさせたことにより、人間の人間たるゆえんである心の働きの解明が進むことが期待される。
2)失語症の発症機構の解明。失語症の研究で長年の論争であった「失文法」の問題に対し、磁気刺激の手法によって新しい知見を提供できたことは、医学の進歩においても重要な成果である。さらに、言語障害の機能回復を研究する上で、ブローカ野の磁気刺激が治療効果をもたらす可能性がある。
3)語学教育の改善。単語の意味と独立した文法知識の存在が科学的に実証されたことにより、語学教育のポイントが明らかになった。この成果は、単語の意味の暗記を中心とする語学教育を改善し、文法知識の獲得を重視する言語習得法への移行を強く促すものである。このような新しいコンセプトの教育方法を提案することで、教育学などの学問分野だけでなく一般社会の発展に寄与するであろう。


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This page updated on September 12, 2002

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