進学の決定論
−物理から脳、そして言語へ−
東京大学駒場キャンパス 基礎科学科 酒井邦嘉
進学は、人生で何回か訪れる大切な選択の一つですね。その時は、右往左往したりして大いに悩むのが普通でしょう。ところが10年後、20年後にそのときのことを思い出してみると、運命的なものを感じたり、偶然が必然に変わったという感慨があるものです。進学先といった進路の選択は自分が自由に決めているように見えて、実は遺伝子と環境によりかなりの部分が決まっているのです。これが「進学の決定論」です。
今春、「サイエンス・カフェ」という一般向けの催しをまとめて、『遺伝子・脳・言語』という本を出しました。その中で、脳が生みだす言語や人間の行動がどこまで遺伝子や環境によって決定されているかを議論しています。遺伝子はいろいろなことを厳密に決定していて、実は、決定していないこと自体も決定しているのです。共著者の堀田凱樹先生は、私が理学部の物理学科の学生だったときに、動物の行動のように複雑に見える現象でも、いかに遺伝子によって決まっているかということを明快に教えて下さったのです。
私が物理学科で遺伝子の研究を始めたと言うと、今でも驚く人は多いでしょう。これを「境界領域」あるいは「融合領域」の研究と見なすこともできますが、そもそもボーダーレスの研究スタイルが自分の中に芽生えたのが、まさに4年生で迎えた研究のスタートラインだったのです。その後、ちょうど10年後に言語の脳研究を始め、そして「融合科学のメッカ」とも言うべき駒場キャンパスでさらに10年を過ごして今自分がこの原稿を書いているとは! このほとんどは決定していたのだとしか思えないのです。
駒場の1年生だったときは、物理学を専攻したいと考えていたのですが、2年生になる直前に、生物に興味を持ち始めました。生物界の多様性を物理のような基本原理や法則の積み重ねによって理解できたら面白いと思い直したのです。それまで物理学一辺倒だった自分の物の見方がどんどん変わっていったのを今でも良く覚えています。そこで、物理学科に進学して生物学を専攻できないものか、と考え始めました。これはかなり風変わりな進路の選択だと言えるでしょう。しかし、すぐに「生物物理」という物理の一分野があることが分かり、その夢が実現できることを知ったのです。
3年生以降は、物理の必修科目以外は他学部聴講と他学科聴講の枠をフルに使って、生物系の講義を「真面目に」受けました。見ず知らずの学生に混じっていろいろな講義を受ける方が、新鮮で楽しかったのです。
学生の時に接した寺田寅彦の次の言葉は、私の迷いを見事に払拭してくれました。
「サイエンスは一つのものです。物理学をやるにしても、他の多くの部門の知識が必要です。自分の専門以外のことをちっとも知らなかったために、回り道をしたりして、つまらぬ損をすることは少なくありません。けっしてフィールドを狭くしてはいけません」
その後の博士課程では、ボーダーレスの研究スタイルが高じて、物理学科に籍をおきながら医学部の生理学教室で本格的な脳研究を始めることになりました。さらにMITでチョムスキーに出会って、人間の言葉の多様性を基本原理から説明しようとする言語学はまさに物理そのものだ、と感動しました。これが、「言語の脳科学」という文系と理系の新しい融合領域に飛び込んだきっかけです。
このように私は物理的な考え方にこだわりがあり、今でもその気持ちに変わりはありません。脳科学や言語学の講義をする一方で、昨年から1年生向けの「力学」を担当するようになったのも、何かの縁でしょう。
さて、あまりに「個性的な」話をしましたので、今度はできるだけ普遍的な進学のアドヴァイスをしてみましょう。私の考える進学の3原則は次の通りです。
(1)進学先は、必修科目の単位をすべて取得する自信のあるところでなくてはならない。(理由は明らか。卒業するためです)
(2)学問分野より、魅力ある教員(もちろん知的な意味で)を重視して進学先を選ぶ。(次の進路を決めるときに決定的です)
(3)先輩や友人が何と言おうと、自分だけでよく考えて進学先を決める。(要は自分のアンテナを未来へ向けることです)
以上の3原則に従って進学先を決めれば、自ずから「進学の決定論」に導かれることを請け合います。(10年後に検証してみて下さい)
もし選択に迷ったら、じっくりと本を読んで考えることです。インターネットで情報を渉猟するだけでは、考える暇がなくていけません。
真理を鋭く突き、そして美しい先達の言葉には、その人のフィロソフィーが凝縮されています。もし私が学生の時に次のバートランド・ラッセルの言葉に接していたなら、数学を一生やり続けていたかもしれません。
「数学は、正しく見なせば、真理だけでなく至高の美をもっています。−
それは彫刻の美のように冷たく簡素で、われわれの弱い性格のどの部分にも訴えることなく、絵画や音楽の豪華な装飾もなく、それでいて気高いほど純粋で、極上の芸術だけが示すことのできるような厳格な完全性を持ちうるのです」
これと良く似た言葉を、マリー・キュリー(キュリー夫人)が残しています。
「私は、科学には大いなる美があると思います。研究室の中の学者はただの技術者ではありません。おとぎ話みたいに心躍らせる自然現象を目の当たりにしている子どもでもあります。私達は、こうした気持ちを研究者でない人達に伝える手段を持たなければなりません」
時代はほぼ10年で確実に変わっていきます。世代間のギャップが徐々に開いていくのは世の常だと言えるでしょう。その中で、新しい物事や考え方を生みだす「独創性」は、大衆化された時代の流れに流されることなく受け継がれてきました。人間に独創性という資質がなかったら、研究者という仕事は存在しなかったでしょう。独創性の火を絶やさないことは、大学の使命でもあるのです。
駒場の講義を初めて受ける理系の新入生に、「将来大学院に進学して研究者になりたいですか?」と尋ねると、ほとんどの学生が手を挙げます。ところが、この貴重なモチヴェーション(動機づけ)を博士課程の後まで、10年を越えて持ち続ける学生は少ないのが現実です。
無味乾燥な大学の講義が彼らのモチヴェーションを奪ってしまうのでしょうか。もしそうだとしたら、大学の教員の責任は重大です。学者の卵を育てるはずの大学で、その芽を摘んでいるのですから。一方、ちょっと「ませた」学生は、「学問は自分で分かるものだ。だから、講義に出ても仕方がない」と言うことでしょう。
多くの学生は、できるだけ少ない労力で講義の単位を取ろうとしますね。講義を楽しむことより、講義をさっさと終えることの方に関心があるようで、残念です。スポーツ・ジムに通って嬉々として汗を流す人は多いのに、なぜ講義に精勤する学生は少ないのでしょうか?
それから、学問より楽しいこと、楽に稼げることに学生の関心が奪われてしまうのかもしれません。安定志向でリスクや困難を回避する昨今の風潮も関係していると思います。
昨年、『科学者という仕事』という本を書きました。科学研究と研究者のフィロソフィーから、研究や発表のセンス、研究の倫理や教育に関する問題、そして科学者の社会貢献について、これまで考えてきたことをまとめたものです。進学を真剣に考える学生は、学問の苦楽や光と陰を分かった上で、そこにどこまで確かな価値や目標を見出すかどうかが鍵でしょう。研究者の仕事について深く考え、語り合う場が、大学に必要だと思います。
終わりに、私の大好きなアインシュタインの言葉を贈ります。
「大切なのは、質問するのをやめないということです。好奇心はそれ自体で存在する根拠があるのです」