Presented by 『ゑれきてる 1998 第67号』

Chap.3

合原 一幸
東京大学大学院
工学系研究科計数工学専攻
助教授
酒井 邦嘉
東京大学大学院
総合文化研究科
助教授

脳を解明するトップダウンとボトムアップの戦略
合原 お話をお伺いして、今酒井さんはトップダウンで脳を研究されてらっしゃる。僕らはボトムアップで、下層階級の方からきて(笑)、酒井さんは上からくる。それがどこかでぶつかれば、かなり全体が見えてくる可能性はあるわけです。
酒井 お互いにそれほどコミュニケーションがなかった分野ですから。お互い、何が欠けていて、何が必要なのかを提供しあうことがこれから大事になってきますね。
合原 アプローチもかなり違うから、そういう意味では議論していてすごく楽しいと思うんです。
酒井 合原先生のボトムアップというところから言えば、ニューロンレベルのカオスはわかった。次はカオスのネットワークというところなんですね。
合原 そうです。カオスのネットワーク性の問題と非同期性の問題。その上で、例えば情報の表現、情報処理の原理としてどういうものが有り得るかというのが、今われわれがやっている研究です。
酒井 カオスのネットワークというのはどう理解すればいいのですか。
合原 そこはまさに複雑系科学の理論的な中核になっているんです。つまり複雑系の科学についてはいろいろな人がいろいろなことを言っているのですが、その中で理論的にしっかりしている分野というのが、低次元カオスから高次元カオスへという流れなんです。この分野では1975年くらいから1次元写像や2次元写像、3変数の微分方程式のような低い次元のカオスについてはかなり理解が進みました。ところがそういうものがネットワークを組んで、次元が上がると、その振る舞いがもの凄く複雑になるのです。複雑なんですが、そこはきちんとこれまでの理論をベースにして進んでいける分野なので、複雑系の科学の中で最も理論的に地に足がついて研究されている分野です。低次元カオスから高次元カオスへという流れで、要素のカオスがわかったときに、それを構成して高次元にした時に何が起こるかという問題です。
酒井 それは脳や心に置き換えるとどのレベルなんですか。
合原 われわれが一番興味を持っているのは脳の中での情報表現の問題です。脳神経科学にとっても重要な問題だと思うんですが、例えばバインディング問題――結び付け問題というのがあります。これまでの脳研究の進歩で、脳は局所的に機能が分かれているということがわかってきている。色はここ、形はここ、と。ところがわれわれはあるオブジェクトを見た時に、それを1つのものとしてとらえることができます。そのカラクリが実はよく分かっておらず、大きな問題になっています。ただ、われわれの観点から言うと、その問題自体が生理学研究の歴史に基づく人為的なものであるという気がしてるんです。

生理学者のこれまでの多大な努力によって、線分の方向とか、手とか顔とかに敏感に反応する細胞が発見されてきています。ところがそういう発見のされ方故に、今度は逆にバインドが難しくなる。しかしここで、これらは元々1つのダイナミクスの総体として応答しているものと仮定すると、実はバインディング問題自体が存在していないんです。局所局所で断片を見ているから結び付けるのは大変なんだけれども、元々1つのダイナミカルなものだと思えば良いわけです。その辺を、本当にわれわれの考え方で良いのかということをまず理論的にはっきりさせる必要があります。他方でそういうものは工学的には簡単に創れますから、バインディング問題を解くようなコンピュータが簡単に創れるわけです。われわれはどうしても、最後は創るということに興味がありますので、その両方ですね。バインディング問題、脳の情報表現のあり方と、その工学的な実現という……その辺りの研究をこの5年くらいでやっていきたいと思っています。

複雑系の科学の立場は還元論を否定しない
合原 今日の意味での複雑系の問題意識で重要なのは、全体と部分の関係だと思います。全体は部分から構成され、一方で部分は全体の影響を受けている。そういう相互のフィードバック系を扱うわけです。その時に重要なのは、フィードバック系が線形であればかなり簡単に、既にある理論で解けるわけです。ところが、脳みたいな面白い複雑系というのは一般に非線形で、大規模でかつ要素の数が多くて、かつ一様でない、非一様性を持っているという性質があるので、そういう全体と部分の間の循環というのは非常に難しい問題となります。

従来の科学の方法論の1つである要素還元論というのは、複雑なものを要素に分けて行って、要素を調べてそれを重ね合わせることによって全体を把握するものですから、重ね合わせが成立する線形理論とは非常に相性が良い。ところが多くの複雑系というものは非線形なので線形の重ね合わせが成り立たないわけです。

よくある誤解なんですが、複雑系というのは非線形なので要素還元論が否定されるというような論調がしばしばあるんですね。でもこれは違います。実は複雑系の研究においても要素還元論は未だに重要なんです。つまり要素の解明が全体の理解のための前提になるわけで、ただ今までと違う所は、線形系であれば要素還元で要素がわかれば重ね合わせとしてダイレクトに全体がわかる。ところが複雑系……より広く非線形システムは、要素はもちろん解明するんですが、要素を解明するだけでは全体はわからない。それらが非線形に相互作用してますから。

そうすると、要素を解明した後で、非線形なシステムとしての全体を構成してみて、その振る舞いを解析するというプロセスがどうしても必要になってくるわけです。つまりそこで構成法という工学の手法が出てくるわけです。工学というのはいろいろな部品を非線形に組み合わせて全体を作るわけです。この工学の世界では当たり前に使ってきた方法が今の複雑系に対する一番有力なアプローチなのです。複雑系の科学の方法論を理解するのは難しいのですが、そう理解してもらえばある程度イメージがわくと思うのです。当たり前のことなのですが、複雑系の科学も従来の学問の成果の上に立っているのです。


Reference
脳を創る、脳を見る●end