研究の背景

 

手話(サイン・ランゲージ)は、日本語や英語と同じように文法を持つ自然言語の一つである。それは、子どもが手話を母語として獲得できることからも明らかである。手話を母語とする人を、ネイティブ・サイナーと呼ぶ。言語学的に見ても、手話が音声言語に勝るとも劣らない機能を備えていることは、ベルージ(U. Bellugi)やクリマ(E. Klima)らによるアメリカ手話(American Sign Language, ASL)の研究によって、実証されている。実際、手話でも左脳の損傷で失語症が起こることが知られている【参考:酒井邦嘉著『言語の脳科学』中公新書、平成14年】。

欧米のろう学校では、1880年の世界ろう教育者会議で口話法の採用が決議されて以来、手話を排除して口話法が導入されるようになり、その後一世紀にわたって、ろう者の教育水準と識字能力の低下を招く結果になった。わが国のろう学校の教員がほとんど聴者であるという現状からわかるように、これまでの聴覚障害児教育は、聞こえない子供たちをいかに聴者の社会に「統合(インテグレート)」するか、という視点が主流であった。その結果、大半の人が不完全な音声言語に基づいて言語を獲得せざるを得なかったのである。このような過酷なろう教育の現状において、聞こえない子供たちにとって本当に必要とされる教育とは何か、いったい何が保障されなくてはならないのかを真剣に考え議論しなくてはならない。平成15年5月27日、全国のろう児とその親たち107人が、「日本手話をろう教育の選択肢のひとつとすること」を求め、日本弁護士連合会に対し人権救済の申し立てをした【参考:全国ろう児をもつ親の会編『ろう教育と言語権』明石書店、平成16年】。これは、ろう者の視点に立った改革の確実な前進の兆しであったが、未だ具体的な勧告はなされていない。一方、全国の産科病院で新生児聴覚スクリーニング検査が実施され、聴覚障害の「早期発見」が行われつつあるにもかかわらず、補聴器の装着や人工内耳の手術は、未だ聴覚の補助的役割を果たすのに止まっている。ろう児に対する「言語権」の保障は国レベルの問題でもあり、一日も早い行政の対応が必要である。第11回世界ろう者会議決議(平成3年、東京)の第一項には、次のように記されている。

「子供の言語の発達にとって、生後三年間はもっとも大切な時期である。したがって、就学前の子供には手話を使う環境で成長する機会を与え、健聴の親には手話の使用についてカウンセリング・サービスと指導を提供しなければならない。あらゆる国々で、子供の人権に関する国連児童憲章がろう児にも適用されることを認識すべきである。」

脳科学においては、アメリカネビル(H. J. Neville)らが、手話を見ているときに、ネイティブ・サイナーの左脳の言語野だけでなく、右脳でも活動が見られることを主張している。さらに、右脳の角回の活動は、アメリカ手話のネイティブ・サイナーに見られるが、思春期以降に手話を習った人(どちらも英語とのバイリンガル)には見られないことを報告した。しかしながら、この結果は「左脳の損傷で、音声言語と同様に手話失語が起こる」という事実と矛盾するため、今なお右脳の活動の原因をめぐって論争が続いている。こうした手話に対するさまざまな誤解を解くためにも、脳科学の観点から手話の言語処理をさらに解明していく必要があった。

 

具体的な実験結果・考察

 

今回の調査の参加者は、日本手話を母語とするろう者9名、日本手話と日本語の両方を母語とするコーダ12名、日本手話の習得経験がない日本語を母語とする聴者12名である。すべての参加者からインフォームド・コンセントを得た。実験で比較した条件は、次の4つである。

 

1) 日本手話によるろう者Deafの脳活動

2) 日本手話によるコーダCodaの脳活動

3) 日本語の音声で提示した条件AUD)の聴者の脳活動

4) 日本語と日本手話を同時に提示した条件A&Vの聴者の脳活動

 

本研究では、次の3つの課題を比較する実験パラダイムを用いた。

 

1.    「文章理解の課題」。図1のような会話文を日本手話または日本語の音声で提示して、文脈に合わない文が提示されたとき、ボタン押しを行う。

2.    「非単語検出の課題」。文章理解の課題で用いた会話文を文単位で順序をランダムに入れ替えて提示する。日本手話または日本語にない単語(非単語)が提示されたとき、ボタン押しを行う。

3.    「反復検出の課題」。非単語検出の課題で用いた会話文を逆再生で提示する。日本手話または日本語の逆再生で同じものが反復して提示されたとき、ボタン押しを行う。

 

これらの課題を行っているときの脳活動をfMRIによって測定し比較した。文章理解の課題と反復検出の課題の脳活動を比較した結果、1)〜4)の4条件に共通して左脳と右脳の両方に活動が見られたが、全体的に左脳の活動の方が強いことが分かった(図2)。また、図2の脳活動から、その左脳と右脳の脳活動を入れ替えたものを差し引いた結果、これらの4条件に共通して、左脳の活動が右脳よりも高まるという「左脳優位性」が示された(図3)。さらに、文章理解の課題と非単語検出の課題の脳活動を比較した結果、文章理解に選択的な脳活動は、手話と音声の両条件に共通して左脳優位であることが示された(図4)。

 

以上の知見をまとめると、文章理解における脳の活動が日本手話と日本語において完全に共通しており、手話と音声言語で同じ脳の場所が活性化するという言語の普遍性が確かめられた。さらに、ろう者・コーダ・聴者のグループの間に共通して、左脳優位の活動が観察された。従って、手話と音声などの言語様式によらない高次の言語処理が左脳に局在していることが明らかとなった。この成果により、手話と音声言語の左脳優位性に関する論争に最終的な決着をつけることができた。

 

 

今回の成果のポイント

 

本研究において、日本手話が音声言語と同等な神経基盤を持つことを、科学的に証明することに初めて成功した今回の成果は、3つの課題を用いることで、脳活動において文章理解の要因を明確に抽出したことがポイントであり、手話の理解における左脳の優位性を直接的に示す、画期的な発見である。

 

手話が人間の自然言語であることは、次の4つの科学的な根拠から明らかである。

 

  1. 手話には音声言語と同様に語順があり、文法構造を持つ。
  2. 手話は、乳幼児が母語として獲得できる。
  3. 左脳の損傷で、音声言語と同様に手話失語が起こる。
  4. 手話にともなう脳活動は、基本的に音声言語と同様である。

 

今回の成果は、この4番目の根拠の証明である。

 

 

研究成果の社会的意義

 

 

 この研究は「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」という目標を掲げた戦略的創造研究推進事業の1つとして行われたものであり、脳の機能発達の基本的な枠組みを提案する。本成果の社会的意義を次に要約する。

 

1)ろう教育の改善。聴覚を失うことは、言語理解を含め脳の知的機能には一切影響を与えない。ろう者の教育水準と識字能力の低下は、口話法を採用し続けたわが国のろう教育の政策が原因である。ろう学校に通う子供には、早急に手話を使う環境で成長する機会を与えなくてはならない。ろう者と聴者のコミュニケーションは、口話法や日本語対応手話ではなく、日本手話か日本語の筆談によって行うことが望ましい。本研究の成果は、現在のろう教育の抜本的な改善を促し、教育学などの学問分野だけでなく広く一般社会の発展に寄与する。

 

2)医療現場の改善。全国の医師がろう児に対する手話の必要性を認識することにより、健聴の親に手話の使用についてカウンセリング・サービスと指導を提供することが可能になる。その上で、補聴器の装着や人工内耳の手術が必要かどうかを判断する必要がある。これがろう者に対する適切なインフォームド・コンセントである。

 

 

「手話がろう者に必要な言語であるということは、地球が太陽のまわりを回っているのと 同じくらい確かなことです。言語権の保障を訴える本書は、ろう教育の転回となるでしょう。」

『ろう教育と言語権』全国ろう児をもつ親の会編(明石書店)帯文

 


 

Figure1a

図1

文章理解の課題で用いた日本手話の例。「今度のろう者大会はいつですか?」という質問に対し、「来年の7月石川で開かれますよ。」のように二人の会話が進行する。ここで、「去年の7月石川で開かれました。」のように文脈に合わない文が提示されたとき、ボタン押しを行うのが課題である。ろう者(Deaf)とコーダ(Coda)に対しては、図のような日本手話を動画で提示する。聴者に対しては、同様の内容を日本語の音声で提示する条件(AUD)と、日本語の音声および日本手話の動画を同時提示する条件(A&V)をテストした。


 

Figure2

図2

文章理解の課題(Sc)と反復検出の課題(R)の脳活動を比較した結果。(A)日本手話によるろう者(Deaf)の脳活動、(B)日本手話によるコーダ(Coda)の脳活動、(C)日本語の音声で提示した条件(AUD)の聴者の脳活動、(D)日本語と日本手話を同時に提示した条件(A&V)の聴者の脳活動。各図は、左から順に脳の左外側部・後頭部・右外側部を示す。これらの4条件に共通して左脳と右脳の両方に活動が見られるが、全体的に左脳(L)の活動の方が強い(赤色が濃く広範に分布している)ことが分かる。


 

Figure3

図3

図2の脳活動(N)から、その左脳と右脳の脳活動を入れ替えたもの(F)を差し引いた結果。(A)日本手話によるろう者(Deaf)の脳活動、(B)日本手話によるコーダ(Coda)の脳活動、(C)日本語の音声で提示した条件(AUD)の聴者の脳活動、(D)日本語と日本手話を同時に提示した条件(A&V)の聴者の脳活動。左右の脳活動を比較した結果、これらの4条件に共通して、左脳の活動が右脳よりも高まるという「左脳優位性」が示された。


 

Figure4

図4

文章理解の課題(Sc)と非単語検出の課題(Sn)の脳活動を比較した結果。A)日本手話によるろう者(Deaf)とコーダ(Coda)の脳活動を合わせたもの、(B)日本語の音声で提示した条件(AUD)と日本手話を同時に提示した条件(A&V)の聴者の脳活動を合わせたもの。文章理解に選択的な脳活動は、手話と音声の両条件に共通して左脳優位であることが示された。