<補足説明>
研究の背景
 言語は、人間に固有の高次脳機能である。人間の言語能力が、その他の心の機能と原理的に分けられるかという問題は、アメリカの言語学者のチョムスキーとスイスの発達心理学者のピアジェによる有名な論争(昭和50年)以来、認知科学における中心的な謎であった。チョムスキーは、言語獲得の生得的なメカニズムが、一般的な学習メカニズムとは全く異なるものであると主張したが、これまで実験的な検証は困難であった。こうした言語の問題は、脳科学における究極の挑戦である【参考:酒井邦嘉著『言語の脳科学』中公新書、平成14年】。言語学のパラダイムに基づく脳機能イメージングの研究により、「言語の脳科学」が科学技術の新しい分野として確立・発展すると期待されている。本研究プロジェクトでは、「教育の脳科学の一つの突破口は言語にある」というコンセプトに基づいて、教育に厳密科学を持ち込むことを追究している。研究のねらいは、言語の脳機能に焦点を当てて、言語獲得のメカニズムを解明することにあり、学校における言語教育と連携して、教育の効果を脳機能の変化として直接的に捉えることを目指してきた。

 平成14年8月1日にプレス発表したように、我々のチームは、言語課題と一般的な認知能力の課題を直接対比することで、文法判断に選択的な活動をブローカ野に見出した。この成果は、「文法」という抽象的な概念が脳の中でどのように使われているかという疑問に対し、特定の大脳皮質の働きとして客観的に答えたもので、記憶などの認知機能では説明できない言語能力の座を特定したこの知見は、世界で初めてであった。 さらに、平成14年9月12日のプレス発表では、意味の判断から独立した「文法中枢」の座を、磁気刺激によって初めて特定した成果を報告した。次に問題となるのは、この文法中枢がどのようにして発達するのかを明らかにすることである。そのためには、脳科学の観点から言語の獲得過程をさらに研究していく必要があった。

 アメリカのグループによるfMRIの実験(Kim et al., 1997)では、幼少のときからバイリンガルで育った群と、十歳頃から第二言語を習得した群とを比較して、後者の群でのみ、2つの言語による活動領域がブローカ野の中で分離していることを報告している(『言語の脳科学』p. 320-322)。その後、第二言語を習得した時期や習熟度が違っても、ブローカ野の活動に差が見られなかったという実験結果(Chee et al., 1999)や、習得時期が遅い方が活動が強まるという報告(Wartenburger et al., 2003)が現れて、母語と第二言語におけるブローカ野の役割は未だ明らかになっていなかった。
具体的な実験結果・考察
 本研究では、言語課題として、動詞の原形を過去形に変える活用変化の文法判断と、動詞のマッチング課題を直接対比した。被験者は、日本語を母語とする右利きの中学1年生14名(6ペアの1卵性双生児と1ペアの2卵性双生児)であり、すべての被験者と保護者からインフォームド・コンセントを得た。実験は、次の5段階より成る。

1) マークシート・テストによる初期状態の確認
 予めマークシート・テストによって初期状態を確認する。全50問からなるテストは、動詞の現在形に対して正しい過去形を2択で選ばせるもので、わからない単語については記入しないように指示した。
2) 第1回fMRI調査
 英語の動詞のマッチング課題では、動詞の現在形を文字で提示して、同じ動詞を強制2択法で選ばせる(図1A)。英語の動詞の過去形課題では、動詞の現在形を提示して、正しい過去形を強制2択法で選ばせる(図1B)。また、英語と同じ意味の日本語の動詞を用いて、同様にマッチング課題(図1C)と過去形課題(図1D)を行った。これら4つの課題を行っている際の脳活動を計測する。
3) トレーニング
 規則動詞60個と不規則動詞60個を準備する。ビンゴ・ゲームを通して、動詞の現在形と過去形の対応関係を集中的にトレーニングした。予め次の授業で使うビンゴ用紙(5×5のマトリックスで、中央のマスはFree)を2枚ずつ配布する。生徒は、指定された動詞の現在形と過去形の8ペアの中から、それぞれの列のマスごとに4〜5ペアを選んで、1回目用の用紙には現在形と過去形の両方を記入し、2回目用の用紙には過去形のみを記入しておく。
 1回目のゲームでは、教師はB,I,N,G,Oの順で各列ごとに現在形と過去形のペアを読み上げ、さらにBの欄に戻って同様に読んでいく。生徒は対応する現在形と過去形のペアを探してマークする。縦・横・斜めで合計5マスがマークできたときにビンゴとなる。さらに、全部のマスをマークした生徒は「ビンゴ・ビンゴ!」と言い(2度目のビンゴ)、1回目が終了する。時間は、3秒に一語を読み上げるペースで2分程度。2回目のゲームでは、教師は各列ごとに現在形を読み上げ、生徒は対応する過去形を探してマークする。
4) マークシート・テストによる到達度の確認
 1)のマークシート・テストと同じものを行い、動詞の過去形習得の到達度を評価する。
5) 第2回fMRI調査
 第1回fMRI調査のときと同じ生徒を対象として、全く同じfMRI調査を行う。

 トレーニング後の第2回fMRI調査において、英語の動詞の過去形課題における脳活動を、英語の動詞のマッチング課題の場合と比較したところ、図2に示すように、左脳(L)のブローカ野を含む前頭前野に最も強い活動が観察された。この活動は、第1回fMRI調査では現れなかったので、英語のトレーニングによる選択的な機能変化であると考えられる。また、日本語の動詞の過去形課題における脳活動を、日本語の動詞のマッチング課題の場合と比較したところ、同様に左脳のブローカ野に最も強い活動が観察された(図3)。英語の過去形課題におけるブローカ野の活動変化を各双生児のペア(横軸のA児と縦軸のB児)について1点ずつプロットしたところ、ペア同士で高い相関を示した(図4)。さらに、各被験者が示す英語の成績の向上に比例して、ブローカ野における活動が増加することが明らかになった(図5)
今回の成果のポイント
 本研究において、実践的な教育効果を個人の脳の学習による変化として、科学的にそして視覚的に捉えることに初めて成功した。また、研究のために特殊なトレーニングを実施するのではなく、日常の学習活動をトレーニングと位置づけて研究の対象とした本成果は、科学研究と学校教育の連携によって初めて可能になったもので、学校教育を対象とする世界初の脳研究である。さらに本研究は、双生児を対象とする先駆的な脳機能研究として、ユニークな意義がある。脳機能の変化が双生児で高い相関を示したことは、双生児が共有する要因によって授業の教育効果が定着することを示唆する。少なくとも中学1年生では、英語が上達すると、日本語を使うときと同じ脳の場所が活性化するように、脳の活動が増加すると考えられる。このメカニズムは、ブローカ野が文法判断を司っており、さらに英語の文法能力の獲得がブローカ野の機能変化によって担われていることを直接的に示す、画期的な発見である。
研究成果の社会的意義
 この研究は「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」という目標を掲げた戦略的創造研究推進事業の1つとして行われたものであり、脳の機能発達の基本的な枠組みを提案する。本成果の社会的意義を次に要約する。
1) 言語の獲得機構の解明。第二言語の文法知識が獲得される過程を、脳科学の立場から初めてはっきりさせたことにより、言語獲得のメカニズムの解明が進むことが期待される。具体的には、英語をマスターするためのメカニズムがわかり、日本語と同じように脳を働かせることの重要性が指摘できる。この知見は、語学習得に直接役立ち、効率の良い学習法に役立てることができる。
2) 言語障害の機能回復への応用。言語障害の機能が回復する際に、ブローカ野の活動がどのように変化していくかをモニターすることにより、リハビリテーションに役立つ新しい知見をもたらす可能性がある。
3) 語学教育の改善。「活用変化」といった複雑な文法知識をいかに効率よく身につけるかは、第二言語の教育が直面する壁の1つである。今回、ビンゴゲームを活用した英語の授業の効果が科学的に実証されたことにより、語学教育の重要なポイントが明らかになった。この成果は、単語の意味翻訳や文法知識の丸暗記を中心とする語学教育を改善し、文法の自然な獲得を重視した言語習得法への移行を強く促すものである。また、教育方法の効果と学習の到達度が、脳の働きとして客観的に評価できる可能性は重要である。このような新しいコンセプトの教育方法を提案することで、教育学などの学問分野だけでなく広く一般社会の発展に寄与する。
<図の説明>
図1 英語と日本語による動詞のマッチング課題と過去形課題。
図2 英語の過去形課題に選択的なトレーニング後の脳活動。
図3 日本語の過去形課題に選択的な脳活動。
図4 英語の過去形課題においてブローカ野の活動変化が示す、双生児のペア間での相関。
図5 英語の成績の向上に比例したブローカ野における活動増加。
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This page updated on January 26, 2004

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