研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
言語の脳機能に基づく言語獲得装置の構築
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者  酒井 邦嘉  東京大学大学院総合文化研究科 助教授
主たる研究参加者  河内 十郎  日本女子大学 教授
 櫻井 彰人  慶應義塾大学大学院理工学研究科 教授
 渡辺 英寿  東京警察病院脳神経外科 医長
 牧  敦  日立製作所基礎研究所 研究員
3.研究内容及び成果

 本研究は、言語学と心理学を中心に据えて、脳機能イメージングの生理学的手法と、神経回路網モデルの工学的手法の融合により、脳における言語情報処理の基本原理の解明をめざしたものである。

 チョムスキー(Noam Chomsky)の言語生得説は、言語に規則があるのは人間が言語を規則的に作ったためではなく、言語が自然法則に従っているからであると主張し、激しい賛否を巻き起こしてきた。最新の脳科学は、実験の積み重ねとMRI技術の向上によって、脳機能の分析を飛躍的に進歩させ、この主張を解明しようとしている。本研究は、脳に備わる「言語獲得装置」の実体を明らかにするため、言語という究極の難問に、脳科学の視点から挑むものである。

 1861年にブローカが発話の障害を報告して以来、言語障害の症例がこれまで数多く蓄積されてきた。大脳皮質の言語野であるブローカ野が損傷を受けると、発話される文から文法的な要素が抜けてしまう現象が知られており、「失文法」と呼ばれる。1960年代に、アメリカのゲシュビントらは、失文法の原因がブローカ野を含む前頭葉の損傷であることを主張したが、この考えに異論を唱える研究者が多数現れて、論争が続けられてきた。その後、脳科学の進歩に伴い、人間の脳活動を画像として捉えるfMRI(機能的磁気共鳴映像法)などを用いて、心のさまざまな機能の座が脳のどこにあるかが調べられるようになってきた。しかし、人間だけに備わった言語能力が、その他の心の機能と原理的に分けられるかという問題は、依然として認知科学における中心的な謎であった。本研究プロジェクトでは、言語の本質である「文法」という抽象的な概念が脳の中でどのように使われているかを特定の大脳皮質の働きとして客観的に明らかにし、記憶などの認知機能では説明できない言語能力の座を特定することを目標とした。この研究により、言語の処理に特化した「言語獲得装置」の存在が確かめられる。

 まず、文法的な間違いを含む文と綴りの間違いを含む文を比較することで、文法判断に必要な認知機能がブローカ野に関係していることを、fMRIによって初めて明らかにした。より一般的な認知機能がどの程度までブローカ野の働きに影響を及ぼすのかを明らかにするために、新しいパラダイムによるfMRI の実験を行い、文法を使う言語理解に対する特異的な活動が、左脳の前頭前野に局在することを発見した。記憶などの認知機能では説明できない言語能力の座を特定したこの知見は世界で初めてのものである。

 言語処理が人間の脳で特別な意味を持つことを初めてはっきりさせたことにより、人間をサルの延長としてとらえる人間観に大きな変革をもたらした。言語の脳科学の成果は、一般的な認知発達の枠組みでは説明できない「言語の生得性」に対する理解を深めると共に、単語の丸覚え中心の語学教育から、文法と理解を重視する言語習得法への移行を強く促すものである。このような新しいコンセプトの教育方法を提案することで、言語の脳科学はその成果を広く教育へ応用することに貢献する。

 本研究プロジェクトを構成する各グループによって得られたその他の成果を、以下にまとめる。

1) 脳における言語獲得装置の解析グループ
 TMS(経頭蓋的磁気刺激法)の実験から、文法処理とブローカ野の働きの因果関係を初めて証明した。TMSは、無侵襲的に脳の一部を刺激して脳の領野と機能の因果関係を明らかにできる、現在唯一の実験手法である。本研究によって文法処理の機能が前頭前野の一部に局在することが示され、しかもTMSが文法判断を特異的に「促進」することが明らかとなった。
 
2) 脳をモデルにした自然言語処理の開発グループ
 人間の大脳の神経システムは、構成要素がアナログ的かつ分散的である一方、自然言語の構文処理に示されるように、機能としては高度にデジタル的かつ集中的な記号処理を行っている。人工神経回路網を用いて、アナログ的かつ分散的な神経回路網の内部表現に含まれる記号的構造を明らかにするとともに、再帰的神経回路網の学習能力を明らかにした。
 
3) 失語症における病態生理の解析グループ
 失語症回復期の症例7例を用いて、言語タスク時の脳活動の計測を光トポグラフィで行なった。これにより、回復期に左右の大脳半球が動的に協調的に作動している可能性が示唆される。
 
4) 光トポグラフィとfMRIによる言語機能計測のためのパラダイム開発グループ
 光トポグラフィの技術開発として、新たに短波長計測の有効性を確認し、脱酸素化ヘモグロビンの変化において従来よりノイズ成分が有意に低減させ、S/Nの向上が示された。これらの技術により、比較的小さな拡散強調だけで神経線維束を描出することに成功した。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 言語はヒトに特有の、脳の最も高次の情報処理システムである。脳はどのようにして言語を処理しているのか、異なる言語によらない普遍的な言語処理の脳機構が実際に存在するのか、また個別言語はその機構の上にどのようにして獲得されていくのか、こうした問題は脳と言語にかかわる根源的な研究課題である。本研究は、普遍文法に基づく「言語獲得装置」が脳に存在することを明らかにすることを目的とし、巧妙な実験パラダイムを考案して、fMRI 、光計測、磁気刺激(TMS)その他の測定方法を活用して脳機能イメージングを行った。これにより脳の局所活動を解析し、文法的な誤りを含む文を処理する過程での脳の活動部位を同定した。この結果は、脳における異なる言語知識に対応する異なるモジュールの存在を示すものである。特に、ブローカ野が言語の文法処理に特化してかかわっていることを明確に示した成果は、言語と脳の研究で世界の先頭を走るものであり、脳科学に新しい局面を開いたといえる。

 一方、言語の獲得過程、獲得装置の仕組みなどは、まだこれからの課題であって、手がつけられていない。理論的なアプローチも実験的な課題とは必ずしも適合してはおらず、実験手段の制約とともにこれからの大きな課題として残されている。

 本研究の成果は、海外40編国内9件の学術論文として一流の学会誌に発表されている。とくに本研究の中心となる成果は、Neuronや米国アカデミー紀要などの超一流の学術誌に発表され、注目を集めた。このほか、海外26件、国内56件の学会発表があり、特許も1件出願している。脳科学における最先端の研究であることから、新聞報道も多く、13件を数える。

4−2.成果の戦略目標・科学技術への貢献
 言語という重要ではあるが困難と考えられていた課題に正面から取り組み、国際的協力体制を確立し、優れた実験パラダイムと測定技術を駆使して世界に誇る成果をあげた。脳と言語の研究に新しい局面を切り拓き、世界の学界をリードしていく基礎研究であり、脳研究に一つの突破口を開くことが期待できる。
4−3.その他の特記事項(受賞歴など)
 国際シンポジウムを主催するなど、国際的な活動を行った。また、神経科学会から奨励賞を授与され、本研究の思想と成果を表明した著書により毎日出版文化賞を受賞している。
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