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『たったひとりのクレオール』という1冊
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■酒井邦嘉

バイリンガル・バイカルチュラル(二言語二文化)教育に
教育学のみならず、言語学や脳科学からの新しい
アプローチが必要
[2004年1月22日現在]

 
■本の紹介

たったひとりのクレオール 聴覚障害児教育における言語論と障害認識
著●上農正剛
定価●2,700円+税
ISBN4-939015-55-6 C0096
四六判/512ページ/上製

決してきちんとは「聞こえない」にもかかわらず、「聞こえているはず」という視線の中で生きていかざるを得ない子どもたちの苦しみを、私たちは本気で考えたことがあったのだろうか。(本書より)
約10年にわたる論考の数々によって、聴覚障害児教育に潜む諸問題を分析し、新たなる言語観、障害観を提起する試みの書。

■酒井邦嘉

◎東京大学大学院総合文化研究科
助教授

さかい・くによし

一九六四年(昭和三九年)、東京に
生まれる

一九八七年、東京大学理学部物理学科
卒業

一九九二年、同大大学院理学系研究科
博士課程修了

理学博士。同年、同大医学部助手

一九九五年、ハーバード大学医学部
リサーチフェロー

MIT言語・哲学科訪問研究員を経て現在、
東京大学大学院総合文化研究科 助教授

●著書

『心にいどむ認知脳科学』(岩波書店)


『言語の脳科学 脳はどのようにことばを

生みだすか』(中公新書・中央公論新社)

バイリンガル・バイカルチュラル(二言語二文化)教育に
教育学のみならず、言語学や脳科学からの新しい
アプローチが必要


 著者の上農氏とは、第三〇回言語・聴能教育実践夏期講座(二〇〇三年)で初めてお会いしたばかりであるが、真摯なそして優しい眼差しが印象的であった。本書は、まさに上農氏の真摯で優しい心からのメッセージである。該博な知識と教育の実践に裏打ちされた、著者渾身の教育論である。
 「たったひとりのクレオール」というタイトルは、逆説的であると同時に、本書が対象とする聴覚障害児教育の困難な現状を象徴している。クレオールとは、不完全な言語環境で育った子供たちが自然に生み出す、完全な文法規則を備えた言語のことである。共通の言葉でなければ仲間同士で話が通じないのだから、たったひとりしか使わないクレオールは本来言葉として使えないはずである。ところが、聴者である母親とろう者である子供の間では、母の音声が完全には子に伝わらず、母の手話も不完全であるために、音声または手話を通してクレオール化が生ずるかもしれないのである。もしもクレオール化が成功して意思の疎通ができるようになったとしても、それは社会で使われている言葉から孤立した言語にならざるを得ない。これは奥深い矛盾である。
 わが国のろう学校の教員がほとんど聴者であるという現状からわかるように、これまでの聴覚障害児教育は、聞こえない子供たちをいかに聴者の社会に「統合(インテグレート)」するか、という視点が主流であった。その結果、不完全な音声言語に基づく「たったひとりのクレオール」を現実に生み出して来たのではないだろうか。本書では、この過酷な状況を経て大人になった人たちの心の葛藤が、実際の例を通して明らかにされる。聞こえない子供たちにとって本当に必要とされる教育とは何だろうか、いったい何が保障されなくてはならないのだろうか。本書の問題提起の重要性は、聴者からろう者への視点の転換にある。
 二〇〇三年五月二七日、全国のろう児とその親たち一〇七人が、「日本手話をろう教育の選択肢のひとつとすること」を求め、日本弁護士連合会に対し人権救済の申し立てをした。これは、ろう者の視点に立った改革の確実な前進の兆しである。その一方で、新生児聴覚スクリーニング検査が各地で実施され、聴覚障害の「早期発見」が行われつつあるにもかかわらず、補聴器の装着や人工内耳の手術は、未だ聴覚の補助的役割を果たすのに止まっているという現実がある。著者は、あくまで冷静に、「私の目には状況はむしろ「混迷」の只中に突入し始めたという方がはるかに事実に即しているように見える」と分析している。聞こえない子供たちのための教育環境の整備は、決して他人事では済まされない、焦眉の急である。
 本書の最後では、聴覚障害児教育における読み書き能力(書記日本語)の獲得の問題が掘り下げられている。日本手話を母語として獲得させ、第二言語として書記日本語の習得を目指そうとする「バイリンガル・バイカルチュラル(二言語二文化)教育」を、著者は基本的に支持しているが、理想論に陥ることなく現状の分析はやはり冷徹である。実際、手話の視覚的音韻(手指の動きや、うなずき、視線の方向など)を文字の音韻に転換する際の問題点について言及している。この問題の解決には、教育学のみならず言語学や脳科学からの新しいアプローチが必要であろう。
 「聞こえないという身体状況でこの世界にやってきた子どもたちが、聞こえない人として大切にされ、きちんとした教育を受け、この世界の成り立ちをしっかり認識し、愛する者と出会い、立派な聞こえない人として、堂々と、そして、静かに生きていける──そのような状況が可能になるためには、一体何が必要なのでしょうか。」このように問いかける本書は、多くの人々の心を揺さぶり続けるに違いない。
(書き下ろし)

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